GJのキレイゴト

キレイゴトだってかまわない。理想だからこそ追い求めたい。

GJのキレイゴト

どんなに社会的な地位が高くても、どんなに高尚な人物でも、どんなに身近な友達でも、ぼくはだれも「信じない」

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Bonjour à tous! ;)

みなさん、こんにちは!

GJ(@UnPetitEspritLi)です。 

 

最近は、「弘前に学生のバーを作りたい!」と宣言したこともあって、学生や大人など、いろいろな人と出会ってお話しする機会が多くなりました。

その中で、ぼくが何の経験もないただの学生だということもあって、たくさんのアドバイスを頂くことも多々あります。

 

人生において、誰かと接すること、あるいは誰かから教えを請うことってたくさんありますよね。社会的動物の人間からすれば当たり前のことなんですが・・・。

みなさんは他人の話を聞くときに心がけていることってありますか?

ぼくは、誰かと接するときには、「信じる」という行為をなるべく排除するようにしています。

えっ、「お前はひねくれ者だ」って?まぁまぁ話くらい聞いてくださいよ。

ぼくがなるべく「他人を信じる」という行為を排除している理由

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ぼくは他人と接するときに、その人の言うことを「信じる」という行為をなるべく排除するようにしています。

「お前はひねくれている」と言われてしまうとなかなか反論できませんが、今回はなぜぼくが他人を信じないようにしているのか、その理由を紹介していきます。

「信じる」ということは「盲目的に肯定すること」

最初に言ってしまいますね。

ぼくは誰かを「信じる」ことって、ものすごく危険なことだと思っています。

しかもそれが「信じ切っている」状態になると、ものすごく危険どころか、もはや手が付けられない状態になっちゃっています。

 

でも忘れないでほしいのは、これも場合によりけりってこと。

何も、「周りの人は全員自分の敵だ!いつかは必ず裏切られるぞ!信じるなんて愚かなことはやめろ!」って言いたいわけではありません。

友達間や家族間などの信頼を否定したいのではありません。

 

一番例になりやすいのが、”宗教”ですね。(ぼくは日本人ぽいというか、特定の宗教を信仰していないので、言えることなのかもしれません。) 

宗教を信仰している人は、自分たちの宗教の正しさを信じ切っています。

決してその中身を疑うことはありません。

自分たちに授けられた教えを盲目的に肯定してしまっているんです。

これってものすごく危険じゃないですか?

自分たちの正当性を決して疑うことなく、相手の意見を”異端”だとして、ひどい時にはそれがキッカケで戦争にまで発展してしまいます。

 

たとえ戦争にまで発展しないにしても、身近な誰かの意見を、盲目的に肯定して受け入れることは自分のためになりません。

それが本当に正しい情報なのか、自分にとって価値のある情報なのかしっかり吟味した上で取り入れるという姿勢が大切です。

”善意”の下に行動している人ほどやっかいなものはない

”善意”で動いている人って本当に素晴らしいと思います。”善意”っていうなれば”愛”じゃないですか。

自分ではなくて、誰かのために」っていう心は、これからの日本社会でますます必要になってくると思うんです。

でも、その”善意”が相手のためになっていないんだとしたらどうですか?

それって本当に誇れる”善意”ですか?

 

例えば、ぼくの周りに多いのが「学生ボランティア」です。

海外のいわゆる”貧困国”に短期間訪れて、現地で見て・学んで・感じてくるというスタディーツアーを経験している人がたくさんいます。

彼らのSNSを見てみると、「現地の彼らのために何かしてあげたい」っていう言葉が多く見られます。

でも、「その」彼らって本当に何かをしてもらいたいと思っているんでしょうか。

あなたが思う”貧困”は、彼らにとっても同じ”貧困”なんでしょうか。

そんなことを思うと、「小さな親切、大きなお世話」と思わざるを得ません。

 

それから、何かしらの宗教を布教していたり、マルチ商法なんかもそうですね。

自分たちのトップリーダーの言うことを信じ切って、その幸福感を他の誰かにも共有させてあげたいとする”善意”から、周りを巻き込んでいきます。

 

そして、そんな彼らの意識を変えることって本当に難しい。

なにしろ「自分は間違っていないんだ」って信じ切っていますからね。

盲目的に自分の意見の正しさを信じ切って、人の意見を聞こうとはしません。たとえ、聞いたとしても自分の意見を変えることはないでしょう。

”善意”って「誰かのために」という高尚な意識なので、それを否定することはとても難しいことです。

だからこそ、”善意”を下に行動している人ほどやっかいなものはないと思ってしまうんです。

ぼくは、自分が尊敬している人ほど「信じない」

人は自分にとって距離が近い人ほど、その人を信じやすくなります。

仲の良さとか、尊敬の念とか、要因は挙げればキリがないですね。

ぼくは、自分が尊敬している人とか、仲が良い人ほど「信じない」ようにしています。

つまり、相手の言っていることを盲目的に受け入れないようにしています。

常に自分の中で、意見の咀嚼(そしゃく)を繰り返して、自分に合う形に変えてから、飲み込むようにしています。

相手の肩書きや社会的地位などで、その人となりの全てを判断してしまうのは、もちろん、仲が良いからと言って相手の言うことを「間違いない」と受け入れてしまうのも、自分のためにならない。そう考えています。

 

相手の意見を「信じる」のではなく、「参考」にする

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繰り返しになりますが、「信じない」ということは、何も相手のことがキライだとか、ぼくが人間不信だからというわけではありません。

相手の言っていることを、自分の中でしっかりと咀嚼(そしゃく)し、そうしてから飲み込む込むことが大切だと言いたいということです。

失敗しても相手のせいではない

宗教の場合には、自分たちの神の教えは絶対なので”失敗”という概念はないのかもしれませんが、誰かからのアドバイスとなればそこには失敗が生じることもあります。

その失敗が生じた時に、相手の意見を「信じていた」場合には、その失敗の責任が相手にあると無意識のうちに思い込んでしまいます。

「あいつが成功すると言ったから挑戦したのに・・・」というような逆恨みになってしまうんですね。

 

こうなると、本来であれば自分にあるはずの失敗の原因が、自分ではなく相手にあるということになって、次への反省として活かせなくなってしまいます。

「今回の失敗に自分は何の罪もない。全てあいつが悪い。」という責任論は、決して自分のためになりません。

その意見を採用して行ってきたプロセス全体は、あなた自身のものであり、振り返るべきは、相手の意見ではなく、自分自身であるはずです。

相手の意見を「信じる」のではなく、あくまでも「参考意見」のひとつとして留めておくことによって、いざ失敗してしまった時には、自分自身を振り返ることができ、ひいいては次回以降の成功につなげることができるんです。

 

逆に言えば、相手を「信じた」以上は、何が起こっても文句を言わずに、無償の愛をもって相手に自分を委ねる姿勢が大切です。愛にしても、何にしても。

 

最後に

今回は、ぼくがなるべく「信じる」という行為を排除している理由について書きました。

そんなぼくの意見を「信じ切ってしまう」のもご注意を・・・。

 

A bientôt! :D

 

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